おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

花火を見た記憶は、誰と一緒に見たかという記憶になる

恋は遠い日の花火ではない、というおじさま向けのコピーがあったが、花火を思い出す時、花火がどんな形をしていたか、どんな色だったかを思い出すことはなく、一緒に見ていた人のことを思い出す。

 

人生は思い出の積み重ねだと考えると、花火を見に行くという行為は花火が主役でなく、誰と行ったかが主題、なのだろうか。

 

みなとみらいで花火を見て、横浜駅まで一緒に歩いて帰ったこと、

花火大会へと歩く傍らビールを買って美味しそうに飲む姿、

蔵前で降りて会場となった道路で花火を一緒に見上げ、

逗子で場所取りをしてもらって最前列で一緒に見た。

熱海のホテルから花火を見に行くのを途中で諦めてコンビニでコーヒーとアイスを買って道端で花火を見ながら帰った。

 

過去のことだが、そんな思い出が自分を作っているかと思うと、イベントそのものが大事なのではなく、大事なのはやはり誰と一緒に過ごしたか、ということなのだろう。

当たり前だが忘れがち。

 

もしその時にずっと携帯を見て、花火も見ていない、隣の人の顔も見ていないとなったら、今、情景を思い出せるだろうか?

その時間も携帯で勉強や仕事をしていたら効率的だろう。

でもその効率のゴールは何なのか?

花火を見ている時は花火を見て、一緒の時間を過ごす。それが現在を生きるということだろう。

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「皿洗いをしているときは、皿洗いだけに集中するべきです。つまり、皿洗いをしている間は、皿洗いをしているという事実を完全に意識しているべきです」。その理由とは?皿洗い中に過去や未来のことを考えているなら、「皿洗いをしている間は、生きていない」からです。死んだ過去を追体験しているか、観念の中にしか存在しない「未来に吸い込まれている」か、どちらかです。

 

人生で時間をどう使うかについて改めて考えられた気がする

私にとっての人生の目的とは花火を見に行くことではなく、誰と一緒に行くか、誰と思い出を作るか、ということだということ。

思い出は花火の周りにこそ開く。

 

旅の目的地はどこでもいいのかもしれない。

私が求めているものは一人旅では探せないものなのだ。