おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

どうしても宗教・霊感・お化けの類の話は苦手である

私も人生が長いので、彼女の家に初めてお邪魔したら見たことない仏壇があったり、盛り塩がしてあったりすることはままある。

信心は個人の自由だが、どうしても宗教その他この手の話はuncomfatableになる。

 

エンターテイメントであればホーンテッドマンションは好きだし、世にも奇妙の怪奇ものは好きだし、もちろん13日の金曜日などの定番ホラーは一通り歩んできたし、好きな漫画家は諸星大次郎だったりするが、実際にそれを信じている前提の話をされるのは苦手だ。

小説などで文革の話を読むのはエキサイティングだし考えさせられるが、自分がその時代に生きるのは勘弁、という感じに似ているだろうか。

 

やはり反証可能性のあるものが好き。

というか私が信じられるものはそれしかない。

心ある宗教家であれば、南無阿弥陀仏と言った時と南無妙法蓮華経と言った時で何が変わるのかランダム化比較試験をするべきだと思うが、違うのだろうか?

水に優しい言葉をかける、みたいなことと何が違うのか。

 

推し活も宗教のようなものだと思っているが、逆を言えば宗教も推し活と言える。

推しや神に救われている人もいるかもしれないが、同時に足元を掬われているのではないか。

 

罪と罰の小説中小説のように、キリスト教徒の前にキリストが再臨しても無視されるだろう。無視ならまだマシなほうで徹底的に糾弾、弾圧されるのではないか。

 

推し活相手なら直接会うこともできるだろうが、よしんばそのような機会があったとしても「感激です〜〜」「応援してます〜〜」「・・・」で終わりである。話すことなんて何もない。推し相手が「ご趣味は?」「休日は何してるの?」などと自分に関心を持ってくれてるという希望は妄想である。

神と対話せよ、というが神のような存在が頑張って自分に興味を持って色々語りかけてくれる、というのは思い違いではないか。弟子がたくさん集まっているから仏陀も説法をするのである。あなたと直接会ったところで花を折ったりもしてみせないだろう。

 

その類のものは、全て自分や他人の妄想であり、それよりも目の前の人を幸せにすることを重視した方が良い。

 

コンピュータを相手にしていると、自分が指示した通りにしか動いてくれないのが問題でもあり愉悦でもある。そのような環境に没頭していると、現実の人間の非ロジカルさに辟易することがある。それで人間嫌いとなってしまう人もいる。

同様に、全く反論してこない神や推しを理想化して、誰かの欠点を愛せない人間になってはいないだろうか?

妄想を肥大化させ、それだけに耽溺しないようにした方がいいだろう。