おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

評価は人の居場所を奪い、感謝は人の居場所を作る

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「評価は人の居場所を奪い、感謝は人の居場所を作る」

もうこの言葉だけで価値があるが、解説も悩み抜いた人にこそ書ける内容である。

評価とは、人間に良し悪しをつける行為。愚痴やネットでの誹謗中傷がそうだし、あなたの旦那さんや私が、待ちゆく人やテレビに対して言う文句もそう。他人を評価することは、相対的に自分を評価することになる。例えば、電車でマナーの悪い人にイライラするのは、その人を悪く評価してる反面、マナーを守ってる自分を良く評価してることになる。評価を繰り返すうちに、理想のみが高かまっていき、自分が追いつけなくなると居場所を失う。居場所を守るために自分に厳しくしてると、許容量を超え、次第に矛先が他人に向き始める。余計に他人にイライラする。負のスパイラル。また、意外だが「褒める」ことも評価であり、人の居場所を奪う。「あの人は優秀」とか。優秀な人を見ると自分がダメに思えて悲しくなるのは、勝手に自分も評価して居場所を無くしてるから。また「お前に褒められても嬉しくねーよ」って感じるのは、自分より下だと思ってる人間に居場所を奪われる不快感だと思う。

感謝は逆に人の居場所を作る。だから、居場所を得たければ、他人に感謝をされること(他者貢献)をするといいらしい。本にはここまでしか書いてなかった。それを知ってからは、いろんな場面で親切を心がけるようにした。ただ、だんだん感謝されないとイライラするようになった。そこで気づいたが、自分は「感謝されたい」という気持ちでいっぱいになっていた。逆に、世の中には自分と同じように「感謝されたい」人がたくさんいるんじゃないかとも思った。そして、感謝を伝えることは誰かの居場所を作れるということであり、それ自体が他者貢献 になるのでは?と考えた。それ以来、一切の評価を辞め、些細なことにも感謝するよう心がけた。例えば、今日も飯が食えることとか。生きてることとか。他人を褒めそうになったときは、感謝に置き換えた。例えば、活躍するスポーツ選手のニュースを見たら「すごい」じゃなく「頑張ってる姿を見ると、自分も頑張ろうと思えるな。ありがたい」とか。次第に、悪いことより、ありがたいことに目が向くようになり、「自分の人生、恵まれてんじゃん」と幸福度が増した。イライラも減った。

他人を評価する時に使うのは自分というものさしである。

それを決めてしまうと自分もその評価軸に乗ってしまい、果ては自縄自縛に陥る。

自分だって完璧じゃないのだから、相手のちょっとした欠陥を責めていては、自分を許せなくなる。

翻って小さなことでも感謝することは相手に居場所を作る。それが自分のした小さな貢献も感謝されるべきことだと分かるようになり、自分を認めたり信じられたりするようになる。

 

結局人間は他人と関わらずには生きていけないのだ。

そして相対する人は合わせ鏡のようなもので、他人を認めて初めて自分のことも認められるのかもしれない。

自分の仕事が何の役にもたってない、社会で認められず孤独だ、と思っている人は、ぜひ無人島にでも行って自給自足の生活をして欲しい。

その時どうやって無人島に行くのだろうか?もしボートを使って行くのだとしたら、そのボートを作った人に感謝して欲しい。ボートの金具1つとっても誰かの仕事で出来ている。その人は自分の仕事に満足していないかもしれない。でも確かにあなたの役に立った。

無人島に行く時に念の為とナイフなど持って行くのだろうか?ナイフの柄であってももちろん誰かが制作している。その人に感謝して欲しい。その材料を作った人にも加工した人にも感謝するべきだろう。

そうするとあなたの仕事も誰かの何かの役に、世界のどこか遠くで、はたまたとても近くで、役に立っているのではないだろうか?

誰かに感謝すれば、自分の存在も救われる。

 

こんな駄文を書いている私も、近い将来AIに食わせる文章としてはてながOpenAIにはてなブログを売って、AI学習に役立っているかも・・しれない。