人の幸せな話というのはそねみやねたみも発生させてしまうものだ。
それは人間の精神として無理のないこと。
ただ、自分がどういう人間になりたいか、と思った時にそういった人の幸せも喜べる人間になりたい。
自分の気持とは関係なく、喜ばしいことは喜ばしいのだという是々非々の感覚だろうか。
幸せとは人類全体の尺度でみると相対的なものだろう。平均年収(中央値でもいいけど)より上だと幸せで、下だと不幸せ、そう感じる人がいてもなんらおかしくはない。
でもだからといって、相手の成功や幸せを喜ぶ人、喜ばない人、2つの種類があるとしたら、私は喜ぶ人になりたい。
それは自分その人と比べて幸せかどうかという比較の問題でなく、どういう人格になりたいかという選択の問題である。
傷ついたとしても、その分人に優しくなれるのではないか。
そう思うし、優しくするかどうかはあなたの選択である。