おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

結局話したいのは愛情を伝えたいから

スキンシップもコミュニケーションの1つ。

 

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しかしその幼児期のスキンシップは思春期に至ると難しい。子供の身体をべたべた触るわけにはいかない。ゆえにスキンシップの代わりに、親は生き生きとした言葉を子供にかけてやらなければならない。具体的に言えば、子供の個性を見出し、その欠落した部分を愛情をもって指摘する言葉であり、長所を大いに称える言葉である。

大人の関係でも同じで、自分の親密なパートナーでもない限り、スキンシップでコミュニケーションを取るわけにはいかない。
逆に言えば親密な関係であれば、スキンシップは重要な行為である。

 

親は子供への愛情の発揮を、まずは愛着行為から出発するべきだ。子供を愛おしいと感じ、その肌に触れるスキンシップは、巷間言われるように実に大切な行為である。

愛おしいと感じるから触れたくなる。私にも愛情深い大叔母さんのような人がいるが、自然にお互い触れ合っている。大声で話さないとコミュニケーションが取れないという側面もあるが。

言葉であっても、スキンシップであっても、相手の形、あるいは形どっているものを認識する、という行為が、相手の存在を認めることになるのではないか。

その中でも、言葉にする、言語化する、という行為はなかなか難しいもので、例えば相手の外見を褒めることで相手の存在を認めることは結構簡単なのだが、そればかりが相手を構成している要素ではなく、やはり内面を認めて欲しい、認められたいものであると思う。

そうした時に、いかに相手の心の有り様を言葉にするか、ということであるが、これはなかなか難易度が高い。

1つ思いつくのは、実際に取った行動で、つまり抽象的でなく、具体的なことで相手への感謝を述べる、ということである。

 

「〇〇をしてくれて(言ってくれて)ありがとう。その行為が、あなたの気持ちの発露が、助けになりました」

 

これが十分に相手の内面を認め、形どっているものを表現する、ということになるのではないか。

今の所ぱっと思いつくのはこれだが、他にも色々あるだろう。

しばらくこういった視点で考えてみることにする。