おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

自分がしたいことを我慢するのは自分を大事にしていないのかもしれない

最近は会話をすぐに終えてしまうことへの対策として、会話の粘り腰についてあれこれ考えているが、そういった「本当はこの人と話したいのに!」という自分の気持ちを無視して、行動を起こさない・起こせないことは自分を大事にしていないのではないかと思うようになった。

 

gratt.hatenadiary.org

今見返してみても良いことが書いてある。

(最近は曰く付きの)いわゆるマシュマロ実験ですが、私の好きなパートは、マシュマロを食べるのを我慢する子供が取っていた行動にあります。

ただ食べるのを我慢しようとする子は、マシュマロを見つめながら「がまん……がまん……」と耐えるのですが、結果食べてしまう。でも食べない子は、あえてマシュマロを見ないようにする、おもちゃで遊ぶなど他のことでマシュマロへの欲望を昇華し、マシュマロの存在を忘れようとするというような話でした。

これは示唆に富むな、と思います。目の前の仕事や勉強だけを見て頑張るよりも、その仕事や勉強がどんなに自分の人生を豊かにするのか、というような仕事の向こう側を見たり、その勉強そのものが楽しみになるような何かを付加するなど、色々工夫はできるはずです。

勉強や運動などはコツコツと続けられているが、それも

  • やった自分
  • やってない自分

を想像した時に、100%やった自分のほうが良い自分になっているし、そうなっていたいと思えるからである。

変化を起こしたい時、やはりこの考えが重要な気がしている。

 

会話の粘り腰を持ちたいというのも同じ気持ちだ。自分を変えたいのである。

自分がこの人と話したい!と思った時に、自分から折れることがないようにしたい。

 

president.jp

私が告げたのは、この「しくじり」と「作文課題の切迫」は同じだ、ということである。自分が追い詰められた状況にありながら放置するという点で共通し、かたや中学生にはそぐわない失敗をし、かたや大人を巻き込んでぎりぎりの綱渡りで事態に対応することになる。

ひとえに自己主張ができないことが原因である。そして、「これはいい機会だ、自己主張を押しとどめて自我を奥底に引っ込めようとしたときには、今日の失敗を思い出しなさい」とも告げた。言うべきときは、はっきり自分の意志を伝えなければならない。

言うべきときには、はっきりと自分の意志を伝えなければならない。

自分の意志を伝えようと思っているだけ、と断りを入れても良いかもしれない。

その後相手がどうリアクションするかというのはもう君の責任範囲外のことで、コントロールできないことである。

Control Controlables.

少なくともコントロール可能な自分の意志の発露は、制限するべきでない、と思う。

 

制限する理由して、恥ずかしいとかこんなこと言われたら相手は迷惑なんじゃないか、とか色々言い訳が出てくるものである。

(C)荒木飛呂彦

逆に、自分の意志を伝えないことがコミュニケーションの質を悪いものにしている、と考えてみたらどうだろうか。伝えないよりも悪いことになっているとしたら、やはり伝えるしかない。

相手の気持を慮るのであれば、できるだけ言い回しを遠くすることで気を使おう。

醤油を目上の人に取ってもらう時に「それは醤油でしょうか?」と尋ねる技法があるが、それと同じく伝え方を考え抜くことで相手への礼儀の代わりとしてください。