おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

人に対する言動も大事だが、自分の心のありようも大事

相手を慮って行動したり、思いやりのある言葉を投げかけるのは大切である。

それと同じぐらい、相手の存在を自分の心の中に置く、というのが大事だと思っている。

いわば仁義のようなものだろうか。

 

おヤクザさんであるあなたが義理のある親分さんのために、「仕事」しなければいけない。世間的人情的にはすべきでないが、親分さんのことを思えばそうするのだ。それが親分さんがすでにあの世に行っていてもするのである。

親分さんは死んでいるのでもうあなたのすることは見ていないし気にもしていない。しかし行動する。

 

あなたも親を泣かせるようなことはしたくないだろう。何か後ろめたいことをしたとしても、それが親にはバレないようにするはずだ。親を傷付けたくないからだ。

そうではなく、自分の心に親を住まわせ「今からしようとしていることは、親が喜ぶだろうか?悲しむだろうか?」と考えてみて欲しい。それが親でも誰でも、あなたが大切に思って、あなたを大切に思ってくれる人であればいい。

 

親を悲しませないように、とする行動は正しいし立派だが、現実には後ろめたいことをしているのに、ただ悲しませないように外面だけはいい格好をする、では駄目だ。

親を傷つけないためにはそれで十分でしょ、などと思っていたら、親が死んだ時に何も支えがなくなって無軌道な行いをすることになる。

たとえ親がこの世から旅立ったとしても、あなたの心の中には居続けるようにして欲しい。

 

これはもう「決め」の問題である。

 

自分の心なんて誰も見えないし、他人への見え方など嘘でいくらでも取り繕える。

心は誰にも縛られないのだから、自分で「こうする」と決断するしかない。

 

アナフィラキシーになって「あなたは次エビを食べたら死にます」と言われたら、もうエビは食べない。「食べようかな〜どうしような〜」などとは悩まない。エビを食べないことは「決まった」のだ。

同じように、「こんなことしたら私の大切にしている、大切にしてくれている親はどう思うだろうか?」と自分の中の大切な人の考えを優先させる、ということを決める。

「これがバレたら怒られるかな〜悲しむだろうな〜」ではない。

「悲しむからやらない」だ。

 

相手に対してどう取り繕うかでなく、自分の心がどうありたいか。

 

そこから真に思いやりのある行動が生まれてくる、とも思う。

そういった心持ちが無い行動というのは、やはりどこか薄っぺらく上辺だけに感じるものだ。