おねずみ三千世界

これより西方、十万億もの仏国土を過ぎて、世界があるが、それを名づけて極楽という。

幸せについて本気出して考えてみた

それほど本気でもないが。

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私達はこう考える。

・お金が十分にあれば幸せになれる

・完璧な体型になれば幸せになれる

・友達より人気が出れば幸せになれる

・成功したキャリアを手に入れれば幸せになれる

と。こういった何かが常にリストアップされているので、私たちは幸せでもなければ、完璧でもない状態なのだ。

自分が求める完璧な幸せというものが、上記のようにリストアップされていると、1つ達成したところでまだ未完のものがあるため、最高に幸せ、という状態にはならないだろう。

死ぬ前にしたいことをリストアップするバケットリスト、というものがあるが、これと同じように、これが出来たら幸せ、という幸せリストを作ってそれを追い求める限り、いつまでたっても幸せはこない。

仕事で成功したい!というのも、達成できるかもしれないが、その後ダメになる可能性も十分にある。その時また不幸せに戻るのだろうか?

理想のパートナーを見つけたい!と思っても、一般的に離婚率も高いし、パートナーが早逝することもあるだろう。自分と親のような関係が理想なので子供ともそういう関係を築きたい、と思っても、子供がどのような人格を持つかはほぼガチャであり、理想との乖離に苛立つこともあるだろう。たまたま親とあなたの相性がよかっただけ、かもしれないのだ。

こうみると、やはり自分でコントロールできないものを幸せの対象に置くのはかなり難易度が高いように思える。

 

自分にとって何が幸せか?というのを考えてみて欲しい。

 

幸せを物質的なものにおくと、それを失った時にまた不幸せに戻ってしまうようだ。

自分がコントロールできない他者を起点に幸せを感じるのも、どうやら難しいようだ。

 

私はやはり、幸せを追い求めている過程による自分の変化に幸せを見つけられる人間なのではないかと思う。過程といっても強さや美しさというのは枯れていくものであるから、ちょっとした気付きで世の中を知る、他人に優しくなる、といった内面の変化で自分という存在に改めて気付く、というのが幸せなのではないかと考えた。

存在が怪しいもの、測り難いものであっても、変化というのは計測できることが多い。

そんな自分の変化を発見していくことで、自分自身が見つけられるのではないか。それが幸せを見つけることではないかと思う。

 

私は私のことをそういうタイプの人間ではないか、と考えるだけであり、これが正解だと言うつもりはない。

他の人が自分の幸せとは何か、と考える際にヒントとなるように、上記の記事中から引用しておく。

 

例)朝のコーヒーを飲みながら、一口飲むごとに一息をついて、口にマグカップを近づけるたびにコーヒーの香りを嗅ぐ。空を見上げ、雲を舞台にして踊る鳥を見て、髪をなでるさわやかな風を感じ、その瞬間瞬間がいかに美しいかを認識するのです。コーヒーを飲みながら、その日何をしなければならないかと悩む代わりに。